小学校教師をしています。大学では民俗学を専攻しており、日本各地に伝わる信仰や霊的な文化に関心を持ってきました。 その経験から、現代の霊能力者の在り方や、占い・祈祷といった行為が人の心にどのように影響を与えるのかに興味を持ち、このサイトを通して情報発信をしています。
お祓いする神社やお寺のえらびかた神社には『社格(しゃかく)』というランキングのようなものがあります。その地域のなかでいちばん社格が高い神社を『一宮(いちのみや)』とよび、お祓いは地域の一宮であればまちがいはありません。
(引用元:[都道府県別] 除霊やお祓いで有名な神社とお寺と選び方)
当地の氏子の生活や健康は、他の地に較べると豊かであったが、明治 45 年の合祀政策によって村社の浅間神社に合祀されることとなった。ところが合祀の後は、氏子の間には夭折する婦人や経済的にも悲運に見舞われる家が多くなり、その後、浅間神社も火災を起こして全焼、当社のご神体も台座だけが残るという状況であった。そこで、氏子一同が協議の末、白鳥家の杉林や芋畑であった旧社地に仮の社を造って、浅間神社から焼け残ったご神体の台座を奉遷、神社は再建されて氏子の生活も合祀前の状態に戻ったという。(引用元:佐藤ひろみ, et al. 神社祭祀にみる祈りのかたち: 越谷のオビシャ・神饌・祓いの伝統行事を通して. 生活科学研究, 2012, 34: 159-168.)
多根村萱野の熊野神社は、萱野地区・舟津地区それに中多根地区の約四十戸の鎮守として祀られていたが、星原神社に合祀されたあと、この地区の人々は非公式に出雲大社より分霊を請けて「杵築社」を建て、毎年十一月二三日には星原神社より神官を招いて祭礼を営んだが、格別の行政措置はなかったという。もちろん十一月三日(昭和六年からは十一月五日)の星原神社の祭礼にも、旧熊野神社氏子として奉仕してきたというから、一種の二重信仰を持っていたことになる。なおこの合祀のあとその勧奨者が急死し、人々はその原因を合祀の祟りだと噂したとも言われている(引用元:華園聰麿. 明治期における神社の廃合の経過と影響―中国地方一山村における事例研究―. 1981. PhD Thesis. Tohoku University.)
小学校教師として子どもたちと向き合う一方で、大学では民俗学を専攻していました。
日本各地の信仰・霊的文化・祈りの風習に長く関心を持ち、現代における霊能者や占いの役割についても学術的な視点と生活者としての目線で探究しています。
このブログでは、伝統文化とスピリチュアルの接点をやさしく解きほぐし、実生活の中で“なにかを信じること”の意味を考えていきます。
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